むろまっち

チントン将軍と

---チントン将軍と綽名された岩屋梓梁---

 

 鹿児島では、禅宗の葬式がチン(鉦)トン(金鼓)グワン( )を騒々しく敲いて進行することからして、禅宗に対しチントングワンと俗称する。

岩屋梓梁はその民族主義思想の立場から、一向宗が自分だけの極楽往生を願うような個人主義思想であることを極度に忌避し、島津忠良に進言して一向宗誅滅政策を採択せしめた。

 そのために一向宗徒を発見する方法として、仏蹴者(ボッケモン)政策

(一向宗のご本尊である阿弥陀仏を蹴飛ばすかどうかで 一向宗徒であるかどうかを判断した政策)

を徹底したため、当時の薩摩人から

「チントン将軍」とか「仏蹴者の大将」と綽名された。

 後年、琉球王尚清となった岩屋梓梁がその倭寇名を「陳東(チントン)」としたのは、

己れが憧憬の師 神農氏(炎帝)の居都「陳東」からとったものとも考えられるが、

伊集院におけるチントン将軍時代を望郷して、チントンに陳東を当字して自称したもので、

当時明国人からも「陳東率」(将軍、頭領)として畏称された。

 倭寇大将となった岩屋梓梁が、八幡大菩薩、春日大明神の旗を押し立てて東支那海を横行し、

また、北京城、南京城攻略戦を展開するなど、明書に

「薩摩州の奴、雄健捷にして口辯あり」

と誌された所以が理解出来るのである。

   『易断政府を樹立した岩屋梓梁』P.111〜112

 

 

| 窪田志一著書 | 17:05 | comments(0) | -
陳東

-転載-

陳東(ちんとう)


嘉靖大倭寇を代表する首領の一人。

出身地については明白ではないが、広東出身とする史料(『三朝平攘録』)がある。

日明間の密貿易に関わっていた事は確実だが、その経歴についてはほとんど分かっていない。

史料『籌海図編(ちゅうかいずへん)』は彼について

「薩摩州君之弟掌書記酋也」

と記しており、

薩摩の島津氏と何らかの係わりを持っていた可能性もある。

この部分から陳東本人が薩摩州君の弟であるとか、日本人だったのではという見解が当時から有るが(「近藤」誤伝説もある)、やはり 中国人と考えるのが自然のようである。

彼がはじめて史料中に姿を現すのは嘉靖34年(1555)で、

肥前・筑前・豊後・和泉・博多・紀伊の日本人を率いて

この年の正月に現在の上海市付近に上陸したと

『籌海図編』の「図譜」は記している。

 

その規模は二、三千人に及んだと推測される。

しかし日本から明への航海時期はだいたい三月から四月が普通で、正月にいきなり数千の人間を率いて海を渡ってきたとは考えにくい。

規模から考えてもその前年から明沿岸部で活動しており、

現地の人間を糾合していたのではないかと思われる。

彼らの集団は葉麻(ようま)(葉明)を首領とする集団と行動を共にしていたようで、

ともに川沙窪(せんさあ)に拠点を構えて 浙江・直隷各地を寇掠した。

同じ頃に柘林(しゃりん)に拠点を構えていた徐海とも連携をとっていた形跡もある。

嘉靖34年の秋に 陳東らはいったん帰国したが、

翌35年正月に再び江南沿岸に出現し川沙窪に拠点を構えた。

そして三月に陳東は徐海集団と連合し、徐海の拠点・柘林に入った。

やがてこれに葉麻集団も加わり、徐海を首領とする数万人規模の大倭寇集団が成立する。

しかしその実態はあくまで諸集団の連合軍という性格を出るものではなかったようだ。
 

五月に徐海・陳東は大軍を率いて浙江の都市・桐郷(とうきょう)を包囲した。

桐郷は孤立無援となり陥落寸前となったが、

総督・胡宗賢は日本からきていた毛烈(もうれつ)の通事・童華や中書の羅龍文らを徐海のもとに送り込んで籠絡し、

桐郷の包囲を解かせてしまう。

徐海が勝手に引き上げたので陳東もやむなく包囲を解いて撤退したが、

このあたりから徐海との間に対立がおこり、それが胡宗賢らの つけいるところとなる。

陳東はいったん徐海と離れて葉麻と連合を組み、新場に拠ったが、

六月には再び徐海と連合して乍浦に入った。

ここで胡宗賢は王翆翹(おうすいぎょう)らを使って徐海に陳東・葉麻らへの疑念を吹き込み、

陳東は葉麻とともに徐海に捕らえられて官軍に突き出されてしまう。

その後の陳東について明確な記述はないが、徐海の滅亡後まもなく処刑されたものと推測される。

    http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/kaizoku/tinto.html

| ヤジロウ | 14:34 | comments(0) | -
地動説

−転載-

学校での歴史教育では、「朝鮮征伐」は「加藤清正」だったはずだが、その以前に既に「ヤジロウ」が朝鮮にその活動範囲を広めていた。
覇権ではなく、布教活動と捉えたほうが正解だろう。
驚かされるのは、当時既に「地動説」を説いていたことが本当なら ちょうどその時期に コペルニクスが「地動説」を唱えたのとシンクロするが、交流があったのか、易断の技なのか、高度のインスピレーションを受け、バースビジョンで理解できたのか・・・実に興味深い。

          http://datasea.seesaa.net/article/471432915.htmlより

| ヤジロウ | 20:12 | comments(0) | -
陳東(ちんとう)

−引用-

 日本に渡航したことのある冒険家で、広東新安郡出身の鄭舜功(ていしゅんこう)の著書「日本一鑑」(嘉靖44)によると、

王直は嘉靖24(1545)年、日本の博多津の倭助才門らを双嶼(そうしょ)に誘引して密貿易を行なったといわれる。
 王直はこの頃、最大の海賊の頭目に成りあがり、日本に亡命して住居を松浦五島地方に置き、みずからを徽王(きおう)と号し、許棟(きょとう)らの残党を集めて双嶼の組織の再建を図ったと見られる。

 

 彼の下には大首領の陳東・辛五郎なども加わり、日本人の直系の用心棒に門多郎、次郎、四助、四郎らの族党を配した。そのころ、許棟と並ぶ海賊に広東出身の陳思盻(ちんしけい)がいたが、この陳を殺して東シナ海を制圧した。

 この時期は朱○の海禁強行が失敗に終わった時期に続く時代であり、後期倭寇の行動が海禁政策と密接な因果関係を持つことを示している。

 王直と鉄砲伝来
 種子島に鉄砲が伝来したことを伝える南浦文之(なんぽぶんし)の「鉄砲記」(1607
成立)は、次の言葉で始まっている。
 「天文癸卯(12年1543)8月25日丁酉、我が西ノ村小浦に一大船有り、いずれの国より来たれるかを知らず、客百余人、その形、類せず、その語通ぜず、見る者以って奇怪となす、その中に大明の儒生一人、五峯(ごほう)と名づくるものあり、今、その姓字を詳にせず、・・・」。

 ここに登場する大明の儒生・五峯とは、実は、王直のことである。

日本の戦国時代における戦争の様相を一変させた鉄砲の伝来には、驚いた事に倭寇王・王直が大きな役割を果たしていた。
 そのことから、「倭寇図巻」に描かれている倭寇たちは鉄砲を持っており、倭寇は当時、最新式の軍事装備をしていたと考えられている。

 王直は、嘉靖31(1552)年、封鎖された双嶼(そうしょ)から、舟山列島の烈港に本拠を移した。

この年4月、倭寇は浙江の台州、黄巌を侵し、定海を略奪した。
 「明史」によれば、さらに嘉靖32(1553)年3月、王直が諸倭を率いて大挙入寇した。

数百隻の船艦をつらねて海上を蔽い、北は長江河口から、浙江の沿岸地方まで数千里の間を無人の境をいくように暴れまわった、と記されている。

 嘉靖34(1555)年春からの倭寇の侵攻はさらに激しく、ついには南京や蘇州の地まで荒らされた。

さらに8月には、紹興に上陸した倭寇は、杭州を西へ向い、天目山の南麓から山河の幽境を通り、王直の出身地を荒らし、1昼夜に120キロを走り、2000キロを踏破。

明人4-5千人を殺すという記録を作っている。

 王直の死と倭寇の終焉
 王直に次ぐ倭寇の巨頭に徐海がいた。

彼は、抗州にある名刹の僧侶出身といわれ、天差平海大将軍と称して海上に雄飛していた人物である。

彼は主として薩摩・大隅党と組んで活躍していた。

この徐海が、倭寇取締りの指揮官に新しく任命された胡宗憲の策略にかかり、嘉靖35(1556)年に殺害された。

 

 そして王直も、翌嘉靖36(1557)年、同じ宗憲の弁舌に乗せられ、五島から帰国したところを捕縛され、斬罪にされた。

 そのころから倭寇の侵略の中心は浙江から福建に移っていった。

王直の死後、舟山列島にいた王直の残党は新たな巨艦を作り、福建の癲を拠点にして福建沿岸に鉾先を移した。

しかしこの福建の倭寇も、興化府城攻略をピークに下火となり、1567年には国初以来の海禁も解かれて、倭寇は終息した。

 一方、日本の国内では秀吉の天下統一がなされて、出国が難しくなったことも倭寇終息の原因になった。

        http://www.araki-labo.jp/shiso88.htmより



 

| ヤジロウ | 19:00 | comments(0) | -
弥次郎の死

 弥次郎は琉球王尚清となってから、「陳東」を自称して倭寇中、明国側総督 胡宗賢に謀られて切られたが、その経緯に関し二説がある。

 々絢F麈(1556年)七月十四日(新八月十八日)被虜、九月八日(新十月十一日) 明国平湖県城に切らる。

◆々絢F麈(1556年)六月二十五日(新七月三十一日)被虜、八月二十四日(新九月二九日)嘉興城北門外に切らる。

                   

      『岩屋天狗と千年王国 下巻』P.32より

| 窪田志一著書 | 08:51 | comments(0) | -
窪田志一氏の祖父−−「伊丹松雄」 

>>

異端の意は『伊丹』から もじったものであるが、

むしろ、島津に対する異端の意を意を誌したもので、

『かたいぐち記』とともに、明治初期まで記録は続き、

最終記録者は筆者の祖父(母方)伊丹松雄(元陸軍中尉)となっている。

 

-伊丹松雄-

1875(明治8年) - 1958(昭和33年)

陸軍大学校第16期卒。
旧帝国陸軍第9師団長。

 

著書 近代外交回顧録 他

| 窪田志一著書 | 09:22 | comments(0) | -
『かたいぐち記』と『異端記』

■『かたいぐち記』と『異端記』
 

『かたいぐち記』は 島津藩主直属の格式下にあった真方衆が、

徳川三百年間、その全国隠密網を動員した調査と 

島津藩学者が谷山清泉寺(現地、鹿児島市南郊)において密かに行ってきた修学会

(参禅を口実とした岩屋梓梁研究発表会)

から盗聴してきたものを 代々の真方衆が記録してきたもので、

「かたいぐち」とは鹿児島方言の「代わりばんこ」という意味か

「語口」という意のいずれかであると思われるが、筆者の推定では前者の意と思う。
 

『かたいぐち記』は単に真方衆の記録だけではなく 往古以来、伊集院家、妙円寺に格納されてきた、筆者も理解できないような断簡零墨(だんかんれいぼく)などの古資料を含んでいる。
『異端記』は、岩屋梓梁がはじめて薩摩(伊集院鶯宿)に京式茶道を伝えさせた伊丹家に伝わった記録で、

異端の意は『伊丹』から もじったものであるが、

むしろ、島津に対する異端の意を意を誌したもので、

『かたいぐち記』とともに、明治初期まで記録は続き、

最終記録者は筆者の祖父(母方)伊丹松雄(元陸軍中尉)となっている。
 以下、「易断史料」または単に、「史料」とあるのは『かたいぐち記』『異端記』をさし、「従来史』とあるのは、従来の日本史一般を総称して誌したものであることをご了承願いたい。

                        『地球ロマン 復刊I号』より

 

| 窪田志一著書 | 18:00 | comments(0) | -
桃太郎

-転載-

永正(えいしょう)13年(丙子・ヒノエネ) 1516
岩屋梓梁20歳
3月24日岡山連島(つらじま)の人・三宅和泉守国秀(みやけいずみのかみくにひで)

室町幕府の許可を得たと言い 12隻の船にて琉球を征服せんとして 薩摩坊津(ぼうのつ)港に停泊中、

丁度、6月1日、鹿児島に帰省していた梓梁が激怒、襲撃し壊滅した。

のち岩屋梓梁は琉球から中国本土回遊す。

永正14年(丁丑・ヒノトウシ) 1517
岩屋梓梁21歳
瀬戸内海の制海権を巡って、易断党と岡山三宅党と抗争した。

瀬戸内海を隔てて梓梁は丸亀に本陣を置き、本陣に見せかけた坂出市沖の沙弥島(しゃみじま・現在地続き)に前線基地を置いた。

三宅軍は一気に 沙弥島を本陣と思い攻めている間に 梓梁は岡山を攻め制圧した。

のち徳川氏により勝った梓梁は鬼とされ、桃の産地の岡山の負けた三宅氏が桃太郎となり

「桃太郎の鬼退治」伝説に歪曲された。

「鬼の城址」

(戦後、岩屋梓梁は「岩の神城」と名付けて一大神域を造る。後年、徳川氏により破壊改称さる)

は最終決戦の場所である。

http://www3.rocketbbs.com/13/bbs.cgi?id=mahikari&mode=res&resto=367  より

| 窪田志一著書 | 13:23 | comments(0) | -
蜂子皇子(はちこのみこ)

--転載--

 ルシファー率いるフリーメーソンは、近世では石屋の秘密結社として知られていますが、その本山体制の崩壊は、日本のバブル経済の崩壊に始まり、闇の世界支配勢力を欧米の二極対立構造に至るまで発展させてしまいました。

 

過去、魔王と言われたルシファー、別名サナート・クマラは、その降臨拠点をいくつも変遷しています。

 

 約1400年前には、山形の月山や秋田に跨る鳥海山を拠点に、

ルシファーと一体となった蜂子皇子が彌勒降臨運動を展開しました。

 

 また、約800年前には、阿蘇を拠点としたルシファーと一体となった 薩摩の曹洞宗の高僧

(石屋真梁(せきおく しんりょう)禅師)が、

インドネシアをはじめとした東アジアをベースに、活動しています。

 

 その後、高僧の血を継ぐ薩摩隼人ヤジロウこと兼清は、

1549年にインドのゴアで出会ったフランシスコ・ザビエルを鹿児島に招き、全国にキリスト教を布教する道を開きました。

 

2年間の布教を終えてゴアに帰還途中、ザビエルは病死しましたが、その後、ヤジロウは、独自に彌勒降臨運動を全国規模で展開し、自ら易断政府をつくり、東アジアまで活動範囲を拡大します。

 

しかし、易断政府への幕府の弾圧とキリシタン弾圧、鎖国政策により、ヤジロウの彌勒運動は歴史から抹殺されてしまいます。

 

世では、明治維新で活躍した薩摩隼人・西郷隆盛が、ヤジロウの生まれ変わりを自称しています。

 

最近では、スサノオの再臨といわれた出口聖師が、ヤジロウと酷似した彌勒降臨運動を展開しています。

 

今年の7月27、28、29日には、従来のイルミナティ本山の中枢であった、鹿児島の丸十字体制の終焉宣言がなされています。

この動きを象徴するかのように、27日に鹿児島県知事の退任、続いて29日に、新知事が就任しています。

7月28日には、今まで宇宙神界との交流拠点であった鹿児島の桜島の月読神社周辺地で、今までの丸十字体制の終焉宣言が、そして同時に、関東に新しい丸十字体制の拠点を移管する手続きがなされています。

過去のルシファー率いるイルミナティ体制が崩壊し、光の天使ルシエル率いる新しいイルミナティ(石屋の仕組みに替わる光のレイラインネットワーク体制)が、関東をベースに動き始めます。

悪魔〈666〉の仕組みがひっくり返って、光の天使の仕組みへ、すなわち、3つの〈6〉で〈666=ミロク=彌勒〉の仕組みとして、新しい地球創生計画を、具体的に出発することとなります。

https://project-gaia.net/messages/PG/message1103.shtmlより

 

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--引用--

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空海が景教の師・恵果のもとで洗礼を受けて、2年で帰国を促された理由は、「密教の本場は日本。聖徳太子が伝統を受け継いでいるから」ということらしい。

古代日本はキリスト教国だった。

しかし、弾圧があり、聖徳太子の一族は全滅。

その迫害を逃れた蜂子皇子が東北に逃れて開いたのが出羽三山。

蜂子皇子の御姿は御顔がみにくく、口は大きく耳の根本まで裂け、鼻の高さは三寸もあり、顔の長さは一尺五寸もある異様な御姿であったと伝えられていますが、これは人々の苦悩を一身に引き受けたからだとも言われています。
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html


この描写は、ペルシャ人(当時ユダヤ人もペルシャ人と呼ばれていた)の彫りの深い顔を誇張したものだろう。

秦の始皇帝も「蜂のような顔をしていた」と記録にある。

東洋人が見ると、西側の人間の顔は蜂の針のようにとがっていると見えたのだろう。

以前、蜂子皇子を先祖に持ち、出羽三山の麓に1400
年住む一族の「阿部」という苗字の方からメールをいただいたことがある。

結婚した女性が、同じくユダヤ人が住んでいたと言われる秩父の出身で外人のような顔をしているという。

同族が結婚することが多い。

日本は、聖徳太子以降、キリスト教が地下に潜ったのではないか。

聖徳太子の側近で、京都を建設した秦河勝も赤穂に逃げたという。

もともと東のエルサレム(エル・シャローム=平安の都)として作られた京都は、敵側に乗っ取られたのか。

 

http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda4/49lgBIoQsVOBQ96452.htm より

 

| ヤジロウ | 09:16 | comments(0) | -
尊仁親王(たかひとしんのう)

--転載--

1034年、のちに後三条天皇となる尊仁(たかひと)親王は敦良(あつなが)親王の第二皇子として生まれます。

摂関家を直接の外戚としない尊仁親王は 有力な皇位継承者とはみなされず、廷臣たちは尊仁親王から距離を置きました。

後朱雀(ごすざく)天皇が亡くなる直前、遺言として尊仁親王を次の天皇である後冷泉(ごれいぜい)天皇の皇太弟とすることを決めても、廷臣たちの態度は変わりませんでした。

当時、皇太弟の地位は 現在ほどしっかりしたものではありません。

状況の変化によって、皇太弟が失脚することは珍しいことではありませんでした。

側近として後三条天皇を支えた大江匡房(おおえのまさふさ)は、『江談抄(ごうだんしょう)』で、藤原頼通は皇太子(東宮)が持つべき「壺切御剣(つぼきりのみつるぎ) 頼通が尊仁親王に23年間も献上しなかったことが書かれています。

頼通は自分の娘を後冷泉天皇の后としましたが、男子に恵まれませんでした。

 

尊仁親王の後見人となった藤原能信

宮廷貴族たちにとって、尊仁親王に近づくことはリスクがあることでした。

摂関家のトップである藤原頼通は 明らかに皇太弟の尊仁親王の即位を望まず、後冷泉天皇と自分の娘である嬉子(よしこ)に子が生まれることを待ち望んでいます。

人事権を持つ関白の藤原頼通の意に沿わない行動は避けたいと考えるのが宮廷人として当然のありようだったでしょう。

しかし、藤原能信(よしのぶ)という人物は頼通の不興を被ることを承知で 尊仁親王の後見人となります。

能信は頼通と同じく藤原道長の子でした。

しかし、頼通と比べ能信の母親は父がすでに失脚した源高明(みなもとのたかあき)だったこともあって、頼通よりも出世が遅れています。

1013年に、能信は頼通と口論したため、父である道長の不興を被っていました。

生来、気が強かったとされる能信にとって、不遇な尊仁親王の後見人として頼通と争うのは苦でなかったのかもしれませんね。

能信は後三条天皇が即位する前に亡くなってしまいます。

1068年、後冷泉天皇が後継者となる男子を残さないままこの世を去ったため、尊仁親王が天皇の位につきました。

これが、後三条天皇です。

後三条天皇は、関白を置かず、学者の大江匡房をブレーンとして親政を行いました。

後三条天皇が力を入れたのが荘園整理。

これにより、摂関家は経済的なダメージを負います。

宣旨枡(せんじます)を制定し、度量衡を整えることも行いました。

また、東北地方の北端まで兵を送り蝦夷を従わせます。

大江氏は歴史に関する研究を行う紀伝道の学者の家系でした。

匡房も幼少のころから学問にはげみます。

匡房は16歳で文章得業生となり、20歳のころには従五位下に叙せられました。

いわば、新進気鋭の学者といったところでしょうか。

1060年に昇任してから、匡房の昇進はピタリと止まってしまいます。

そんな状況に嫌気がさし、一度は引退しようと考えました。

しかし、周囲の反対により思いとどまります。

匡房にとって転機となったのは1067年に尊仁親王の学士に任じられたことでした。

匡房は天皇の師として学士をつとめ、尊仁親王の信任を得ます。

1068年、後三条天皇が即位すると匡房は天皇の秘書官役である蔵人に任じられました。

後三条天皇は平安京に遷都した桓武天皇を意識し、国家制度の立て直しと東北遠征に強い関心を抱きました。

匡房は天皇のブレーンとなり、政策実現に尽力します。

平安時代中期から後期にかけて、律令で定められた公地公民制は完全に崩れてしまいました。

その代わり、土地は貴族や寺社の私有地である荘園と地方を支配する国司が把握している公領の二つに区分されるようになります。

中でも、国家財政に打撃となったのは荘園の増加でした。

奈良時代から平安時代初期の荘園は、国に税を納めなければならない土地です。

しかし、荘園領主は税を逃れるため、中欧の有力貴族に名目上の土地所有者になってもらいました。

力の強い貴族は課税から逃れやすかったからです。

902年、醍醐天皇延喜の荘園整理令を出したのをはじめとして、984年の花山天皇の荘園整理令、1055年の後冷泉天皇の荘園整理令などがだされます。

しかし、最も多くの荘園を持つ摂関家などに忖度したため、思うような成果を上げられません。

1069年、後三条天皇は延久の荘園整理令を発布します。

延久の荘園整理令の内容は大きく分けて二つ。

第一に、1045年以後の新しい荘園を停止すること。

第二に、認可した書類が不備である荘園は容赦なく停止とすることでした。

後三条天皇は記録を整理するための専門部署として記録荘園券契所(記録所)を設置し、全国各地の荘園を厳しく審査します。

さらに、審査の対象をいままで「忖度」されがちだった摂関家や大寺社の荘園にも拡大しました。

記録書の調査の結果、荘園を認める書類(券契)の不備があった場合は、たとえ摂関家の荘園であったとしても容赦なく没収され公領に組み込まれます。

また、一部の荘園は天皇直属の勅旨田とされました。

これにより、摂関家や大寺社は経済的に打撃をうけます。

平安時代初期の桓武天皇の時代、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は蝦夷の首長阿弖流為(あてるい)と戦い、朝廷の支配領域を北へと広げました。

9世紀以後、大規模な征服戦争は行われなくなり、東北地方に住む蝦夷は徐々に朝廷の支配に従いました。

朝廷に従った蝦夷の人々を、朝廷は俘囚(ふしゅぅ)と称しました。

俘囚の長として東北地方で力を持ったのが安倍氏です。

安倍氏は1051年から1062年まで続く前九年の役で陸奥守源頼義の軍勢と戦って敗北。

安倍氏の勢力は出羽の豪族である清原氏に引き継がれました。

後三条天皇が東北北端の蝦夷を征服し、桓武天皇以来の蝦夷征討を完遂させようとしたのは1070年のこと。

戦いの詳細は明らかになっていませんが、津軽半島・下北半島という本州の北端まで朝廷の威光が及んだ可能性があります。

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1072年、後三条天皇は在位わずか4年で白河天皇に譲位します。

後三条天皇の死後、白河天皇は院政を創始。

藤原氏の手から政治の実権を取り戻すことに成功します。

その一方、摂関家の勢力は目に見えて弱体化しました。

日本全国に支配権を及ぼす院のトップは、「治天の君」とよばれ、日本の政治を牛耳る存在となりました。

1072年、後三条天皇は第一皇子の貞仁親王(のちの白河天皇)に譲位します。

一説には院政を敷こうと はかったともいわれますが、後三条天皇(太上天皇)は病でこの世を去りました。

20歳で即位した白河天皇は関白こそおきますが、後三条天皇と同じく親政をめざします。

1085年、白河天皇はわずか8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位。

以後、太上天皇(上皇)となった白河上皇は 堀河天皇を後見することを口実に 自ら政治を行いました。

さらに、白河上皇は朝廷とは別に院庁を設置。

天皇にかわって政治をおこないます。

このように、上皇が天皇にかわって政治の実権を握って行う政治を 院政といいました。

政治の実権を握った白河上皇は、地方官を歴任し経済的に豊かとなった受領や上皇の一族を 院近臣として重用します。

 

院政がはじまると、それまで政治の頂点に君臨していた摂関家は明らかに没落し始めます。

そもそも、摂関家の力の源泉は、天皇代理として人事権を行使できることにありました。

院政がはじまると、上皇が天皇代理となり、人事権も上皇のものになります。

出世を願う人々は、摂関家ではなく上皇を頼るようになりました。

その結果、土地は院に集中するようになり、八条院領長講堂領といった広大な院の荘園が成立します。

また、経済的な利権が大きい地方の国司になりたいものは、上皇の機嫌をとるため内裏や寺院の造営を請け負うことを積極的に行いました。

加えて、院近臣は豊かな国の国司として任命されることも増加します。

院の権威向上は、そのまま摂関家の衰退へとつながりました。

 

日本国中の権威と権力が白河上皇に集中した結果、白河上皇はかつてないほど強大な権力を保持することになりました。

『平家物語』の中で白河上皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆きます。

鴨川の水と双六のサイコロの目、宗教的権威を背景とする比叡山の僧兵は自分の力ではコントロールできないという嘆きですね。

しかし、見方を変えれば、それ以外のことはすべて思い通りにできるという上皇の自信の表れともいえます。

白河上皇の強大な権力鳥羽上皇に引き継がれました。

鳥羽上皇の死後、保元の乱で勝利した後白河天皇(上皇)も絶大な力を引き継ぎます。

日本全国を支配した白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇などは「治天の君」と呼ばれるようになりました。

天皇が目指した天皇・皇室中心の政治は院政によって達成できた

後三条天皇はそれまで摂関家によって奪われていた政治の実権を回復し、親政を行おうとしました。

後三条天皇の死後、院政が行われると摂関家の力は衰退。

皇室が政治の主導権を回復します。

しかし、そのために作り上げた仕組みは摂関家が行った摂関政治とよく似た仕組みで、天皇の後見役が政治の実権を握るというものでした。

天皇による親政が一時的にでも回復するのは後醍醐天皇の登場を待たなければなりません。

                        https://rinto.life/138915より

 

 

 

 

 

 

| ヤジロウ | 14:49 | comments(0) | -
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